First Experience
前奏曲


「誠司くーん!」

校門に寄りかかって携帯をいじっていたところに僕を呼ぶ声がした。

僕は携帯をしまうと、声のした方向、つまり校舎のほうを向いた。都が手をパタパタと振りながら走ってくるのが見えた。

都は僕の前で立ち止まると、前屈みになってしばらく荒い呼吸を整える。やがて、落ち着いたところで汗ばんだ顔を上げて言った。

「遅くなっちゃってごめんね。部活が思いの外長引いちゃって。ほんと、ごめん」

手を合わせてペコペコと頭を下げる。もともとハの字に下がり気味の眉がさらにその角度を増していた。

「かまわないよ、別に。僕の方もさっき終わったところだからさ。待っている間にゲームをプレイしてたんだけど、それもまだ一面の途中だったしね」

まあそれは、都がすぐに来たからというよりは、携帯で十六連打を要求されるシューティングゲームをすることに無理があるせいだったりするのだけど。

「ごめんね……」

都はまた謝る。それは僕に許してもらえたことに対する「ごめんね」なのか、それとも、ゲームの最中だったのに邪魔したことに対する「ごめんね」なのかよくわからなかった。どちらにしても「そんなの謝らなくてもいいよ」と言おうと思ったけど、そうしたら今度はそのことに対して謝ってきそうだ。これではらちがあかないので、さっさとこの場を切り上げてしまうことにした。

僕は都の頭に手を置き、くしゃくしゃと撫でた。突然のことに驚いたように目を丸くしている都に対し、僕は優しく言う。

「さあ帰ろう、都」

都は一瞬きょとんとしていたものの、すぐに笑顔を返して答えた。

「うん、誠司君」

僕のひいき目もあるかもしれないけど、その笑顔はとてもかわいかった。

夕暮れ時の河川敷。そこの土手は通学路になっているため、学校帰りの生徒の姿がぽつぽつと見受けられる。僕らもそんな生徒の中の一人だった。

「誠司君、今日の部活はどうだった?」

隣りを歩いている都が聞いてきた。彼女は僕より頭一つほど小さいので、おのずと見上げる格好となる。

僕は都を少し斜めから見下ろすような形で答えた。

「自己ベストを更新したよ」

「え、そうなんだ。すごいや!」

感心したように都は言う。

「すごいのかな? いくら練習でいい記録を出せても、本番で実力が出せなければ意味がないように思えるけど」

「そんなことないよ。努力した結果がちゃんと出たというだけでも意味はあるんだよ。それに、練習で自己ベストが出せたなら、きっと本番でもうまくいくよ。大丈夫」

何の根拠のない“大丈夫”。だけど、都に笑顔でそう言われると、本当に大丈夫なような気がしてくるから不思議だ。

ちなみに、僕は陸上部で800mをやっている。いわゆる2 Lap Runnerってやつだ。800mは短距離走のスピードと長距離走の持久力の双方が要求される、その過酷さゆえにキング・オブ・アスリートとも称されるかっこいい競技なのである。まあ、陸上に興味のない人間には、ただトラックの中を駆けずり回っているだけにしか見えないのだろうけど。

「都のほうはどうなんだ?」

僕は都に聞いた。

都は文芸部に所属している。なんでも小説を書いているらしい。恥ずかしいからと言って一度も読ませてもらったことはないけど。

「うーん、それなんだけどね……」

とたんに都の顔が渋くなる。

「どうもみんなのやる気が感じられないのよね。今日は月末に出す部誌の内容について話し合ったんだけど、過去にやった企画の焼き回しみたいなものしか出てこないし、載せる作品も、各自適当に短いのを書いてお茶を濁そうという感じになっちゃっているし……。わたしとしてはね、もっと大きな話を書いてみたいわけよ」

「大きな話? たとえばどんな」

「そうだねぇ……。綾辻行人先生のトリックを、京極夏彦先生の様式美で展開しつつ、森博嗣先生のような理系ロジックで構成しながら、笠井潔先生的哲学考察を繰り広げたあげく、しあげとして島田荘司先生のやおい風味をあしらったような――そんな本格ミステリをね。どうかな?」

「ど、どうなんだろ? ただなんとなく、それは混ぜてはいけない洗剤を混ぜるようなもののように思えるけど……」

こんな感じでそれぞれの部活の出来事について話した後、話題はおのずとこれからのことへと移っていく。

「買い物はどこでする? 駅前のスーパーでいいかな」

「そうだね。あそこなら品揃えも豊富だし、なにより、野菜も魚介類も新鮮だからね。あ、今からだとちょうどタイムセールに当たるかもよ。これを逃す手はないね」

「そっか。じゃあ、少し急ぐか」

「うん。そうだね」

「よし、じゃあ競争だ。負けた方が学食奢ること。用意スタート!」

「あっ!? せ、誠司君、ちょっと待ってよー!」

こうして、僕らは河川敷を後にした。

なぜ、僕たちが二人でスーパーで買い物をするのかというと、今日は都が家に来て晩ごはんを作ってくれることになっているからだ。そのための買い出しなわけである。

その後、都はそのまま家に泊まっていくことになっている。

そして、僕らは初体験をする……予定。

         *

そもそもの発端は、うちの両親が窪塚さん夫婦と温泉旅行に行くと言いだしたことにある。

ここで我が家――三浦家と、窪塚家の関係について簡単に説明しておくことにする。

うちの父親と窪塚のおじさんは幼稚園から小学校、中学校、高校、大学に至るまでずっと一緒という息の長い幼なじみだ。

母親たちは父親たちほど年期は入ってはいないものの、高校、大学と一緒の親友同士だ。

大学時代、女性陣二人を幼なじみ男二人がナンパをしたことから彼らの関係は始まった。よほど馬が合ったのか彼らの交際はその後も順調に進み、大学卒業後、二年間の社会人生活を経た後、ほぼ同時にゴールインした。

その後、彼らは示し合わせたように生活の拠点を郊外のベットタウンに移した。それもすぐ目と鼻の先にだ。

その地で、二家族はほぼ同時期に子宝を授かることになる。三浦家は男の子を、窪塚家は女の子をだ。つまり、それが僕と都なわけだ。

当然、親しい両家は家族ぐるみの付き合いをすることになる。互いの家で晩ごはんをごちそうになったり、そろってショッピングに繰り出したり、キャンプをしたり。さすがに子どもが大きくなった近年では一緒に出かけるようなことはまれにはなっていたけど、それでもずっと親しい交流は続いていた。

そしてこの度、久々に両家が揃って旅行に行くことになったというわけである。

しかし――

「誠司はお留守番ね」

母さんは、さも当然とばかりに言った。

母さん曰く、今回の旅行は『あの日、僕らは出会った。二十年目のメモリーズ』のテーマのもと、親四人が青春時代に戻って楽しく語り明かそうというものである。であるからして、青春後に生まれた子どもはその場には不必要……ていうか邪魔なわけで、あんたらは家で大人しく留守番してなさい――とまあ、そういうことなのだそうだ。

別にそのことに不満はなかった。この歳になって親と仲良く家族旅行だなんて恥ずかしいし、金さえ置いていってくれれば一人でも充分生活していける自信はあったから。どうぞ家のことは僕に任せて、親同士思う存分交流を深めてくればいいさと思った。

しかし、母さんは僕の生活能力に疑問を抱いているようだった。

「あんた一人置いていくのはなんとも心許ないわね。戸締まりは大丈夫? 火の元は? 電気をつけっぱなしにしやしない? ああ、心配だ、心配だ。一番の問題は食事よね。あんたのことだから極力食費を切りつめて、自分の小遣いにしようという魂胆が見え見えだからねぇ」

戸締まりや火の元については、それくらい僕だってできるさと文句のひとつも言ってやりたくなったが、食費の件ははっきり言って図星だったので何も反論できなかった。

その時、母さんはとてもいいアイデアを思いついたとばかりにポンッと手を叩いて言った。

「そうだ、こうしよう。あんたの食費は全部窪塚さんちの都ちゃんにあずけることにしましょう。あの子はしっかり者だから、あんたのお金もきちんと管理してくれることでしょう」

その突拍子もない考えに僕は猛然と反対した。都に食費を預けたりしたら、僕が食事をしようとする度に都の所にいかなくてはならないじゃないか。そんな面倒なことできるものか。

すると、母さんはその点は心配いらないわよ、と不敵な笑みを浮かべてこんな提案をしたのだった。

「私たちが旅行している間は都ちゃんに家に来てもらってご飯作ってもらえばいいじゃないの。美和子(都の母親)に聞いたら、都ちゃんは料理もうまいそうだからね。親がいない間も家庭の味を食することができるだなんて、あんたも幸せ者だねぇ」

幸せ者ってあんた……。相手の都合も考えず勝手にそんなこと決めていいのか、と当然僕は反対したのだが、最後には母さんの、

「もうこれは決定事項でーす。反対するような親不孝な息子には旅行期間中無一文で過ごしていただきまーす」

という鶴の一声(?)によって屈服せざるを得なかったのだった。……親がこんな傍若無人だと子どもはグレるぞ、まったく。

「――というわけで、晩ごはんを作りに来てはくれないだろうか?」

その晩、僕は都に携帯で母さんが決定した事項を頼み込んだ。母さんは自分であんな勝手なことを決めたくせに、「あんたが作ってもらうんだから、自分で都ちゃんに頼みな。相手の機嫌を損ねないよう、せいぜい低頭平身で誠意を持って頼み込むこったね」などとぬかしやがったせいだ。

『うん、いいよ』

さいわい、都は二つ返事で了承してくれたので、携帯の前で土下座するはめにはならずにすんだ。

『わたし、あまり料理が得意というわけじゃないからうまく作れるかはわからないけど、それでもいいのなら』

申し訳なさそうにそう言うものの、都は必要以上に自分をへりくだるところがあるので、実際はおばさんが評したようにけっこう料理はうまいほうなのだと思う。

「すまないな。うちの横暴な鬼母の身勝手な思いつきのせいで手間かけることになってしまって」

『ううん、かまわないよ。うちだってお母さんがいなくなるわけだから、どっちにしろわたしがご飯作らなくちゃいけないんだしね。自分の分だけ作っても張り合いがないから、誠司君にも食べてもらえたほうが励みになるよ』

「そうか、ありがとう」

母さんの策略にまんまと乗せられているようで癪ではあるけど、都の手料理が食べられると思うとうれしくなった。

そんなはしゃいだ気分でいたところに、次の都のさりげない言葉が耳に飛び込んできた。

『それに、一人は寂しいから……』

僕ははっとした。スピーカー越しに聞こえた都の切ない声に胸がきゅんとなった。そうだ、両親が旅行に行っている間、都はひとりきりなんだ。

次の言葉はごく自然に口から出た。

「……泊まりに来るか?」

『……え?』

「だから、その……親がいない間、家に泊まりに来るか?」

『…………』

沈黙。だけど携帯の小さなスピーカーからは都が息を飲む声が聞こえてきた。僕には都があたふたとうろたえている様が目に浮かぶようだった。

そんな都を誘惑するように僕は続ける。

「いいだろ? せっかく誰もいないんだからさ」

『…………』

「親にばれるのが怖いか? 大丈夫さ、ばれやしないよ。向こうは山奥の温泉にいるんだし、連絡だって携帯の方にかけるようにしてもらえばいいんだしさ」

『…………』

「親のほうが勝手に旅行するっていうんなら、こっちだって勝手なことしてやろうよ」

『…………』

「……なんか僕って、いたいけな青少年をいけない道に引き込もうとしている悪い大人みたいだよな」

『…………』

「ごめんな。真面目な都にはこういうことは受け入れられないよな」

『…………』

「だけど、一つだけ言わせてもらいたいのは、都が寂しいと感じているように、僕も寂しいわけで……だから一緒にいられたらいいなと思うわけで……」

『…………』

「でも、無理強いはできないよな」

『……いいよ』

「ごめん、この話はなかったことに……え?」

都は今度ははっきりとした声で言った。

『いいよ。両親が旅行に行ったら、わたし誠司君の家に泊まりに行く。……いいよね?』

「も、もちろん! 歓迎するよ」

僕は小躍りせんばかりに答えた。

母さんは僕と都の関係がただの幼なじみにすぎないと高をくくっているのではないだろうか。だからこそ、都を僕しかいない家に上がらせるような無防備な提案ができたのだと思う。

だけど、僕と都の関係はそれだけのものではなかったのだ。気恥ずかしいし、言ったらきっとひやかされるに決まっているので親には黙っているけど、僕と都はいわゆる恋人同士なのだ。

僕たちが本格的にそういう関係になったのは二年前の中学二年の時だ。それ以前からも僕らは普通の男子女子以上には仲良くしていて、その様子をまわりに“恋人”だの“夫婦”だのと言われてからかわれたりしたものだ。最初の頃はいちいち否定してまわっていたものの、やがてそれもばかばかしくなったので、「じゃあ、本当に恋人同士になっちゃおうか?」と僕が提案したのだ。僕としてはほんの軽い気持ちで言ったのだけど、都はとたんに泣き出してしまった。てっきり嫌で泣いているのかと焦った僕に、都は「急に泣き出したりしてごめんね……。でも、とても嬉しかったから……。誠司君と恋人同士になることが夢だったから……」と顔をくしゃくしゃにしながら言ってくれた。少し照れくさかったけど、それ以上に天にも昇らんばかりに嬉しかったのを覚えている。

こうして僕らは晴れて恋人同士になったわけだけど、それで二人の関係に劇的な変化があったというわけではなかった。多少意識するところは変わったかもしれないけど、基本的にはこれまでと変わらぬ清い付き合いを続けている。

……だけど、いつまでもこのままというわけにもいかないだろう。恋人宣言をしてからはや二年、そろそろ関係を先へと進めるべきではないか――そう僕は考えていた。それはきっと、都も望んでいるはずだから。

今回のことは願ってもないチャンスだと思った。同じ屋根の下で二人きりになったなら、僕と都はきっと……。

うちの母親の提案を窪塚家の親もあっさりと承認してくれた。うちの母親の言い出したことだからということもあるだろうけど、なにより僕と都のことを信用してくれているからなのではないだろうか。……少し後ろめたさを感じた。だけど、僕らは考えを改めるつもりはなかった。もう決めたのだから……。

そして今日、僕らの両親は仲良く温泉宿へと旅立ち、同時に僕らの秘密の計画もスタートした。

         *

駅前のスーパーにやってきた。入り口前に無秩序に停められた自転車を避けながら自動ドアをくぐり店内へと入る。そこで僕らは出迎えたのは、夕闇の色が濃くなっていく外とはうらはらにこうこうと灯っている照明と、うるさいくらいの音量で流れている有線の曲や、安売りを知らせるカセットテープに録音された店員の声だった。

店内は夕食の買い出しをしているおばさん連中で賑わっていた。品物を手にとって物色している人、両手に品物がいっぱいに入ったカゴを持って歩いている人、お喋りに花を咲かせている人などさまざまだ。今、目の前をお菓子の箱を持った子どもが駆け抜けていった。

都は入り口の脇に積み重ねられているオレンジ色のカゴを取ろうとしていた。

「僕が持つからいいよ」

僕は都を制してカゴを手に取った。

「あ……ごめんね」

「いいって。それより、何を買うかは都は選んでくれよ。僕には生鮮食品の善し悪しなんてわからないからさ」

「わかった。まかせといて」

こうして役割分担を決めた僕らは店内を回る。都は前を歩いて品物を物色する。発泡スチロールのトレイに載せられたサンマをひとつひとつ手にとっては丹念に見比べている。僕の目にはどれも大差ないように思えるけど、見る人が見ると違うらしい。ちなみに、都が言うにはサンマは口の先が黄色いものが新鮮なのだそうだ。

やがてお眼鏡にかなった一品を見つけた都は、それを後ろに控えていた僕に手渡した。僕はそれを受け取ると、手に持ったカゴへ入れる。このような流れで僕らは買い物をしていく。

大根、ジャガイモ、牛肉、豆腐、ネギ、ほうれん草などが次々とカゴに収まっていく。中には、都が牛乳の賞味期限を調べている隙に僕が確保してきたスナック菓子やアイスの姿もあった。自分が選んだ以外の品物が入っていることに気づいた都は少し困ったような顔をして「ちゃんとご飯を食べてからだよ」と、まるで子どもをたしなめる母親のように言った。

必要な食材を揃えた僕らは、レジへと向かった。込み合う時間帯のせいもあってか五台あるレジは全部埋まっており、列ができていた。その中でも比較的短い列に僕らは並んだ。前方からバーコードを読み込む小気味よい電子音が響いてくる。

僕はふとレジの向こう側を見た。このスーパーでは食品などが並んでいるところとは独立して酒や薬を販売しているブースがある。ここから見るかぎり、そちらのほうは客足もまばらだった。

「都、ごめん。買う物を思い出した。ちょっと離れるから、会計の方頼むね」

「うん、わかった。でも、お金はあるの? いくらか渡そうか?」

「いいよ。小遣いくらいは持っているし、それにこれは個人的な買い物だからさ」

「そう。じゃあ、レジを出たところで待ち合わせね」

僕はカゴを床に置いてレジの列から離れた。レジ脇の通路を抜け、薬局のブースへとむかう。酒のほうにも少し興味はあったけど、それにも増して今は薬局のある物に切実なまでの必要性を感じていた。

やってきた薬局のブースは僕以外の客はいなかった。食材コーナーの盛況とはえらい違いだ。白衣を着た中年男性の店員がレジのところで帳簿を付けている。僕にとって幸いな環境だ。もし店員が女性だったりしたら、何も買わずに逃げ出していたかもしれない。

僕はブース内を回って目的の品を探した。どこに置いてあるのかよくわからなかったけど、店員に聞くのははばかられたので自力で探す。そして、二周ほどぐるぐる回ったところでやっとその品物が置かれている棚を発見した。それはブースの隅っこに目立たないように置かれていた。

それはコンドームだった。

コンドームは小さな細長い箱に入れられていた。箱のデザインはシンプルかつ簡素なものが多く、それがちょっと意外だった。使用目的が使用目的なんで、もう少し猥雑な外観をイメージしていたから。まあ、薬局という空間で真面目に売られているのだからそんなわけはないのだけど。

その中の何個かを手に取ってみる。思った以上に軽かった。箱の裏を見てみると、形状の絵や枚数、使用方法などが書かれていた。あと、使用者の推奨サイズなんかも。

僕のあれは……まあ、普通だと思う。以前、日本人の平均は十二、三センチだという話を聞いて、興味本位で定規で測ったことがあるから間違いないだろう。

見栄を張って一番大きいサイズを買っても役に立たないだろうし、虚しいだけなので、平均的なサイズのものを一箱購入することにした。

「……これください」

そっけなくそう言ってコンドームの箱をレジに差し出す。心なしか視線があさっての方向に向いてしまう。

店員は僕とは違い、別段意識することもなく箱を受け取ると、裏返してバーコードを読みとった。

値段は千円とちょっとだった。意外と安いと感じた。今回買った物は十二枚枚入りだから、一枚百円もしないことになる。セックスってけっこう経済的な楽しみなのかも、なんて思ったりした。

店員は親切にも茶色い紙袋に入れてくれた。地味なパッケージとはいえ、半透明なビニール袋にでも入れられた日には恥ずかしくて持って歩けないと思っていたので助かった。この手の商品は紙袋に入れるようにするという決まりでもあるのだろうか。

僕は紙袋を持って薬局のブースを出た。食品コーナーに戻ってみると、都はすでにレジを出たところにある買った品物を袋に詰め込むための台の前で待っていた。台の上には膨らんだスーパーのロゴがプリントされているナイロンの手提げ袋が置かれている。

「ごめん、待たせたかい?」

「ううん、そんなことないよ。わたしもさっき袋に詰め終えたところだから」

「ごめんな、袋詰めまでやらせてしまって」

「気にしないで。これくらいどうってことないから」

「そうか。――じゃあ、出ようか」

「うん。そうだね」

都は頷くと手提げ袋を持とうとしたけど、僕はカゴの時同様、それを制して自分で持った。けっこうな重さだから都にはきついと思ったし、なにより、男として女性に荷物を持たせるわけにはいかない。

都は「ごめんね」とすまなそうに言うと、僕が手提げ袋を持つ際に台の上に置いた紙袋に目を向けた。それを両手で大事そうに手に取った。

「じゃあ、わたしはこれを持ってあげるね」

自分も役にたてたとばかりに嬉しそうに都は笑う。

「あ……う、うん、別にいいけど……」

なにぶん中身が中身なんで、都に持ってもらうのはちょっと気が引けたのだけど、ここで申し出を拒絶しようものならきっと悲しそうな顔をされてしまうので(都の悲しそうな顔は捨てられた子犬みたいできゅんとなってしまうのだ)、仕方なく僕は頷いた。

都は紙袋に印刷されていた文字を見て、

「薬局に行ってたんだね。いったい何を買ったの? 部活で使う湿布薬か何か?」

「え……ま、まあ、そんなところかな」

乾いた笑い声をたてて僕は答えた。

そんな僕を見て都は不思議そうに首を傾げたけど、幸いにも深く追究はしないでくれた。

         *

小綺麗な一軒家が建ち並ぶ住宅街の通りを僕と都は歩いていた。僕の家への帰り道だ。

スーパーを出てすぐの頃は学校での出来事や昨日見たテレビの話なんかをしていたのだけど、やがて会話はなくなり、二人とも無言で歩を進めていた。だけど、気まずい感じはなくて、むしろ落ち着いた穏やかな雰囲気だった。

僕らは他のカップルのようにベタベタといちゃつくようなことはあまりしない。それは照れくさいからというのもあるのだろうけど、なにより、あまりそういう必要性を感じていないからなのではないだろうか。幼い頃からずっと一緒にいるせいか、無理に束縛しようとしなくても相手はいつも側にいてくれるのだということがわかっているのだと思う。

僕はふと、隣りを歩いている都を見た。この位置からだと都の横顔を窺うことができる。

ハの字型に下がっているため、いつも困っているように見えてしまう少し太めの眉。ちょっとたれ気味の大きな瞳。まだうっすらとそばかすが残っている頬。柔らかそうなピンク色の唇。肩ほどの長さの黒い髪が風でさらさらと揺れる。

そんな横顔をぼんやり眺めながら、やっぱりかわいいよな、と思った。

客観的に評するなら、都は必ずしも美少女というわけではないと思う。たしかに見た目はそれほど悪くはないし、以前男子が授業中に手紙を回して行った『クラス一の美少女は誰だ! コンテスト』では比較的上位にランクされていたけど、だからと言って周りにちやほやされるほど人気があるわけでも、アタックを試みようと企てる輩が現れたりするわけでもない、はっきり言って地味で目立たないやつであったりする。

だけど、僕は都の魅力を知っている。外から見える部分、見えない隠れた部分、いろんなところを数え切れないほどたくさん。そのひとつひとつを取り上げて説明したいのはやまやまだけど、そんなことしていたらいくらページがあっても足りないのでやめておく。

そんなのは、ただのあばたもえくぼじゃないかって? ……たしかにそうかもしれない。だけど、たとえ客観的ではなくても、惚れた弱みであろうとも、僕にとって都は他の誰よりもずっとかわいくて、そんな都に僕は心底ぞっこんなのだ。――文句あるかい?

「……ん? 誠司君、どうかしたの?」

不意に都がこちらを振り向いた。僕がここにいない誰かに対していきり立っていることを不思議に思ったようだ。

「あ……いや、何でもない」

僕はあわてて首を振った。君がいかに魅力的であるかということを考えていたのだよ、なんて面と向かって言えるほど僕はラテン系気質ではなく、むしろウブで純情なやつなのだった。

気恥ずかしさで都の顔を真っ直ぐ見られない僕を不思議そうに眺めていた都は、おかしそうにクスッと笑って、

「変な誠司君」

しつこいようだけど、その笑顔はこの上なくかわいかったわけで……。都の魅力に気づいていない輩は、この心からとろけてしまいそうな笑顔を見てみろ言いたい。

「あ……」

都がはっとしたような声を上げた。その視線は僕の向こう側に向けられている。

何事かと思い、僕はその視線の先を追った。

そこには公園があった。住宅地の狭い敷地にぎゅうぎゅうに遊具を詰め込んだような小さな児童公園だ。

夕食時という時間帯のせいなのか、それとも今どきの子どもはこんなところでは遊ばないからなのかはわからないけど、公園の中に人影はなかった。

「……懐かしいね」

都は呟くように言った。

そうだ。この公園は小さい頃僕らがよく遊んだ場所なのだ。この辺はきちんと区画整理された住宅地ということもあり、子どもの遊び場になるような余分な空き地なんかはなかったから、自然と遊ぶ場所はこの公園に限られていた。

ここではいろんな遊びをした。ブランコから靴を飛ばして距離を競ったり、滑り台を頭のほうから滑って空飛ぶヒーローになった気分を味わったり、水飲み場の蛇口を指で押さえて放水してみたり……いろいろやったっけ。

「あの頃の都はとんだおてんばさんだったよな。いつも泥だらけで走り回ってさ」

僕が当時の都の様子を思い出し、ニヤニヤして言うと、都はムッしたように口を尖らせ、

「そういう誠司君はすごい泣き虫だったじゃない。鬼ごっこで鬼になる度に『鬼なんて嫌だー!』って泣き出したりしてさ」

僕は思わず眉をひそめた。昔泣き虫だったことは触れてもらいたくない過去だ。あまりになさけないから。

一瞬、僕らの間に不穏な空気が流れた。……でも、それは本当に一瞬だけだった。次の瞬間には僕らは笑い合っていた。過去に何を馳せるかは人それぞれだろうけど、僕らのそれは、思い出すとちょっとの苦さとそれ以上の楽しさで笑顔になってしまう、そんな幸福な記憶だった。

「……変わったよね、いろいろと」

笑いが治まると、都はボソリと言った。

「そうだな。都はすっかり女性らしくなったからな」

「誠司君もずいぶん男性らしくなったよね」

そうやって二人で評し合ったら何だか恥ずかしくなってしまい、僕らは再び視線を公園の方へと反らす。

この公園だってだいぶ変わった。滑り台の柱は昔は毒々しいまでの緑だったのに、今は柔らかなクリーム色だ。大好きだった箱形ブランコも安全性の問題とかで撤去され、今は背中に座れるようになっている熊とパンダの置物が置かれている。

あと、きっとこれは僕の記憶違いなのだろうけど、狭くなっているような気がする。たしかに元々狭いところではあったけど、昔はもっと広いと感じていたはずなのだ。それこそ、ここが世界の全てであるかのように。

僕らも場所も記憶も、何もかもが変わっていってしまう……。

夕闇が沈みゆく公園は、僕らを物悲しい気持ちにさせた。

「変わってしまうことは切ないね……。だけど――」

都は僕の手を握った。

「変われる喜びというのも、きっとあるんだと思う……」

僕は都を見た。都はまっすぐな瞳で公園を見つめている。その夕日の赤に照らされた表情は何かを決意しているかのようにも見受けられた。

何だか迂闊に声をかけにくい雰囲気だったけど、いつまでもこうしているわけにもいかない。僕は都の手をぎゅっと握り返して言った。

「帰ろう」

しばしの沈黙の後、都はこくりと頷いた。

そして、僕らは公園を後にして家路についた。その間、手はずっと繋いだままだった。

         *

家に帰ってきた。僕が生まれるより以前に建てられ、ずっと成長を見守ってきてくれたその家はかなり年期が入っていたけど、二年前にリフォームを施したこともあり、ぱっと見ただけではそれほど古臭さは感じさせなかった。

いつもはこの時間帯に帰ってくると外灯やカーテン越しの明かりが出迎えてくれるのだけど、今日は真っ暗だ。僕の他には誰もいないのだという事実をあらためて実感した。

僕は鞄の中から玄関の鍵を取り出すと、鍵穴に差し込んで錠を開けた。偽物の木目が施されたドアを開けると、そのまま玄関の奥へと進み、外灯と玄関の明かりを付けた。

「どうぞ。遠慮せず入って」

僕が靴を脱ぎ捨てながら言うと、都は「おじゃまします」とペコリと頭を下げながら玄関をくぐった。僕とは違い、ちゃんと框に腰を下ろしてから靴を脱ぐと、僕の分まできちんと揃えてくれた。

僕は廊下、リビング、キッチンと次々に明かりを灯していきながら都を家の奥へと誘導する。

「どうする? 夕食の準備は少し休んでからにするか?」

ダイニングのテーブルにスーパーの手提げ袋を置いて僕は尋ねる。

都はリビングの隅にいつもより大きめの鞄を置くと、

「わたしは別にかまわないけど。誠司君はお腹すいてない?」

「うーん、ちょっと空いてるかもな」

実際はちょっとどころではなかったりする。育ち盛りだし、部活をやった後なのだから当然だ。

「じゃあ、大変だけどやっちゃおう。手早く作ればそれほど時間はかからないと思うからさ」

こうして、僕らは夕食の準備に取りかかった。

都はキッチンの椅子にかけられていた年甲斐もなくファンシーな柄の母さんのエプロンを身につけると、手提げ袋の中の品物をテーブルの上に並べだした。今必要なものとそうでない物に分け、必要ないものは冷蔵庫や戸棚にしまう。テーブル上に残ったものは早速調理し始める。サンマをさばき、豆腐を升の目状に切る。二つの鍋にお湯を炊き、一方ではみそ汁用にダシを取り、もう一方ではほうれん草を茹でる。

それらの作業はまったくよどみがなく、流れるようだった。いかにもこなれているという印象を受けた。その手際のよさを、僕は少し離れたところから呆然と眺めていた。

「えーと……何か手伝うことはないかな?」

僕が邪魔にならないよう恐る恐る尋ねると、都は包丁を動かす手を止めることなく(今はジャガイモの皮を剥いていた)、

「じゃあ、お米といでもらえるかな」

「了解。どれくらいとげばいいんだ?」

「そうだねぇ、誠司君けっこう食べそうだから二合くらいでいいんじゃないかな」

僕は流しの上の棚に置いてあったプラスチック製の黄色いボールを手に取ると、米櫃から透明なカップ二杯分の米を移した。それを流しに持っていき、流水に浸しながらガシガシといでいく。

「誠司君、あまり乱暴にしないで。やさしくして。あ、いいよ。誠司君、上手だね」

……そんな都の言葉が何となくいやらしく聞こえてしまうのは、僕が嫌らしいことをしようともくろんでいるせいなのだろうか。

とぎ水が透明になるまでといだ米を電子ジャーに移すと、スイッチを入れて炊き始めた。都は「本当は少し置いてからの方がいいんだけどね」と言っていたけど、腹が空いていたから多少の行程は省かせていただこう。

僕が一仕事終えた頃、都は煮物を作っていた。鍋にアルミ箔で作った即席の落とし蓋を落とし、ぐつぐつと煮ている。

「これは何?」

「肉じゃがだよ。誠司君、好き?」

「うん。肉じゃがに限らず、煮物の類は結構好きかな」

そう答えると、都はくすっと笑った。「やっぱりそうなんだ」などと呟いている。

「何がやっぱりなんだ?」

「あのね、うちのお母さんが言うにはね、男の人は基本的に煮物が好きなものなんだってさ」

「へえー、そうなんだ」

「うん。煮物そのものもそうだけど、それにも増して、女の人が自分のために煮物を作ってくるというシチュエーションが堪らないんだってさ」

「はあ……」

「だからね、男を籠絡するためにも煮物のひとつや二つは作れるようになりなさいって言われて、けっこう鍛えられたんだよ」

「ろ、籠絡ねぇ……」

僕は男だからよくわからないけど、世間の母親と娘の間ではそういう会話がなされているものなのだろうか。

僕が呆然としているのを見た都は、自分が問題発言をしたことに気づいたのか、

「あ……い、いや、わたしは別に誠司君を籠絡してやろうとか思ってメニューに肉じゃがを選んだわけじゃないんだよ」

「都……」

「ただ、きっと誠司君は好きだろうなって思ったからにすぎないんだからね。それにほら、ちょうど新じゃがが出回っていたからきっとおいしいものができるんじゃないかなって思ったから」

「都」

「だから、それだけの理由にすぎないんだよ。籠絡だとかそんな邪なことは考えていない、考えていないよ」

「都!」

「は、はい! ……なんでしょう?」

あたふたと弁解し続けていた都は、僕の声にやっと反応してくれた。まるで鬼軍曹にどやされた新兵のように直立不動になっている。

そんな都に、僕は鍋を指差して言った。

「焦げてる」

「え……ひゃーっ!?」

都は黒い煙を噴き上げていた鍋をあわててガス台から外した。濡れた台拭きの上に置くと、ジューと一気に冷やされる音がした。

「…………」

「…………」

しばし呆然と焦げ臭いを発する鍋を見つめる僕ら。

「……えーと――」

都は僕のほうを向くと、情けない顔をして言った。

「何て言うか、ほら、ちょっと焦げたくらいが美味しいって言うし……」

「……それはサンマだろ」

幸いにも、鍋の底のほうが少し焦げただけで肉じゃが自体には大した被害はなかったので、おかずが一品減るという事態は免れることができた。

そんなアクシデントがありながらも晩ごはんは無事完成した。メニューはサンマの塩焼きに肉じゃが、ほうれん草のごま和え、豆腐とネギのみそ汁にご飯といったところ。他には冷蔵庫から出してきた佃煮や漬け物などがテーブルの上に並んでいる。素朴だけど、いかにも正しい日本の食卓という感じでよろしいのではないだろうか。

ほんの数十分でこれだけのものを揃えることができたのだから、都の料理の腕も大したものだと思う。

あとは味なのだけど――

「じゃあ、いただきます」

「はい、召し上がれ」

僕は箸を手に取ると、まずは肉じゃがを狙った。これが一番料理の腕が試されるものだと思ったからだ。

ほくほくしたジャガイモと甘辛い味のしみ込んだ肉を一緒に口に入れる。

「……どう?」

都が僕の顔を覗き込むようにして聞く。その目は不安気だ。

僕はきちんと咀嚼し、飲み込んでから、ニッコリと笑って言った。

「うん、うまい!」

「本当? よかった」

都の不安な顔が一瞬にしてぱっと明るくなる。

本当はちょっとばかり焦げっぽい味がしたのだけど、気になるほどではなかったし、なにより都の喜ぶ顔が見られたのだから、そう言っといてよかったと思った。

僕は他のおかずにも手を出していった。みそ汁は鰹ダシの風味がよく出ていたし、サンマもきれいに焼けていて文句なしだった。まだまだ未熟な部分はあるにしても、その若さでこれだけのものが作れるなら充分だろう。

一心不乱に食に集中していた僕は、サンマを一尾食べ終えたところでふと顔を上げた。都がテーブルの上で指を組み、僕をじっと見つめていることに気が付いた。

「僕の顔にご飯粒でも付いてるか?」

僕が聞くと、都は首を振って、

「ううん、ただ見てただけ。誠司君が食べているところを見ていると楽しくてさ」

「何だよ。行儀が悪いとでも言いたいわけ?」

「そうじゃないよ。一生懸命食べてくれているから嬉しいの。作ってあげた甲斐があったなって思ってさ」

そう言うと、都はニッコリ微笑んだ。

……おばさんは煮物で籠絡しろだなんてけしかけたようだけど、そんなものなくたって笑顔ひとつで充分僕は籠絡されてしまっているな、と思った。

「ごちそうさまでした」

「お粗末様でした」

晩ごはんを食べ終えた僕らはコーヒーを飲んで一休みした。コーヒーが僕は入れた。といっても、以前専門店で挽いてもらった豆をコーヒーメーカーにぶち込んだだけなのだけど。都は苦いのが苦手だからとミルクと砂糖をたくさん入れていた。そんなことしたら、せっかくの味と香りが台無しなんだけどなぁ。

その後、食器を洗う。わたしが洗うから休んでいていいよと都は言ったものの、ごはんを作ってもらったのだから洗い物くらいは僕がすべきだと思ったのでその申し出を断り、逆に都に休むよう促した。でも、都はすまなそうな顔をしながらも、買い物の時のようには引き下がってくれなかったので、結局僕が洗い、都が拭くという分担に落ち着いた。

洗い物をしながら、都の家では食器洗い機を使っているという話を聞かされた。楽なのはもちろん、手洗いより水道代がはるかにお得だし、電気代もそれほどかかるものではないのだそうだ。それならうちの親にも勧めてみようかと思ったけど、そんなことしたら「なに言ってるの。うちにもあるじゃない、食器洗いどころか、掃除、洗濯までできるやつが。そう、『全自動下僕ロボ・セイジミウラ2002』が!」などと言われ、家の手伝いをさせられそうなのでやめておくことにした。

一仕事を終えた僕らはリビングでテレビを観た。テレビでは二人揃って長者番付の上位にランキングされる漫才コンビが司会を務めるバラエティー番組をやっていた。

僕は彼らは本当に面白いのだろうか、ということを都に問いかけてみた。たしかに、二人での掛け合いやゲストの芸能人のいじりなどはとても面白いとは思う。だけど、問題は頭を丸めている方にあるのだ。彼はよくマスコミに“天才”などと持ち上げられたりしていて、実際トーク番組などでは抜群に面白いのだけど、たまに深夜に放送される彼がピンでやっている番組などはいったいどこが面白いのかよくわからなかったりする。独りよがりなギャグをかまし、ヒャッヒャと笑って一人悦に入っている薄ら寒い印象しかないのだ。まあ彼にしてみれば、そういうことを言うようなやつは「笑いがわかっていない」ということになるのだろうけど。でも、彼のギャグセンスはチンピラヤクザみたいな相方のツッコミがあって初めて生かされるのあって、それを自分だけの才能だと思いこんで天才気取りでいるのは勘違い野郎以外の何者でもないのではないか――と思うのだけど、いかがなものだろうか。

てなことを都に話したところ、「うーん、どうなんだろうね……」と曖昧な返答をされてしまった。まあ、突然そんなこと滔々と説かれても反応しにくいか。自分でもこの話題はどうかと思ったし。

その番組が終わった後も、僕らは買っておいたアイスを食べたりしながらぼんやりテレビの前に座っていた。ブラウン管の中では、一匹狼的なタイトルとは裏腹に仲間と和気藹々としている刑事物や、女性キャスターに毎度のようにセクハラ紛いの発言をする名物キャスターやっているニュースショーなどが流れていく。だけど、僕はそれらの番組に集中することができないでいた。内容に興味がなかったからというのもあるけど、なにより僕の心はもっと他のところに向いていたからで……。

僕はテレビから視線を外して横を見た。そこには都が座っていた。胸と太股の間に小さなクッションを挟み、体操座りするような格好でテレビに向かっていた。そのちんまりとした姿が小動物チックでかわいかった。

こんな時間なのに都がいるという事実に胸が高鳴った。今日都に家に泊まるよう誘った真の目的は忘れてはいない。今は虎視眈々とその機会を窺っているところなのだ。そう、都を僕の部屋に連れ込む機会を!

最初はバラエティ番組が終わったところで誘うつもりだったのだけど、その時は都がすぐトイレに立ってしまったため機会を逃してしまった。その後も「主役の中年刑事が娘二人に邪険にされたら」とか、「中年刑事が人情で犯人に自供をさせたら」とか、「番組の終わりに、中年刑事が行きつけの飲み屋のママに『もうヤスウラさんったら』とお決まりの台詞を言われて締めに入ったら」とか、「CGで描かれた、無意味に豪華なニュースショーのオープニングが流れたら」とか、「キャスターがコメンテーターのコメントをぶつ切りにするかのように『はいCM』って言ったら」とか、「スポーツコーナーで濃い顔のコメンテーターがサッカーについて熱く語り出したら」とか、さまざまなタイミングで次こそはと意気込むのだけど、その度に外からチャルメラが流れてきたり、ほしいと思っていたテレビゲームのCMに見入ってしまったり、単に尻込みしてしまったりといった具合でなかなか言い出すことができずにいた。

そうやってうだうだしている間に時計は十一時を回っていた。事を成すにはいい時間帯だと言えなくもない。天の時は満ちた。地の利もある。後は人の和だけなんだけど……これは僕ががんばるしかないか。

ニュースショーは今日の為替市場の数字を表示していた。もうすぐ番組も終了だ。

よし決めた! 番組終了と同時に言うぞ。僕の部屋に行かないかって。

番組はスタジオに戻り、出演者が番組終了までグダグダと語り合っていた。よし、いよいよだ。言うぞ、言うぞ、言うぞ!

『では、また来――』

キャスターが別れの言葉を言っている途中で番組は終了し、発泡酒のCMへと変わってしまった。またタイミングが……。

この後は深夜番組だ。そこでも同じことを繰り返すのは正直しんどいと感じた。

ええい! もうタイミングだの何だのと理屈をこねて問題を先送りするのはやめだ。言ってやる。都に僕の気持ちをはっきりと言ってやる!

僕は意を決して都のほうを向いて言った。

「都」「誠司君」

僕の声と都の声が重なった。

そして沈黙。深夜のバラエティ番組のオープニングが流れる。画面は見ていないけど、音声で二股疑惑の彼女の家にガサ入れをするという内容だということはわかった。

僕らはしばらく互いを見合った後、

「都からどうぞ」「誠司君からどうぞ」

また声が重なった。

またも沈黙。テレビでは若手コメディアン二人組が依頼人の彼女の家に無理矢理乗り込んでいた。

「あー、じゃあ、僕からでいいかな?」

僕が躊躇いがちに言うと、

「う、うん、どうぞ」

都は手を差し伸べて促した。

「えーと……」

僕は用件を言おうとする。だけど――

「…………」

……何て言ったらいいんだろう? 意気込みばかりが空回りしていて、何と言うべきかなんて全然考えていなかった。

単純に「僕の部屋に行こう」でいいのかな。でも、それだけだとその意図――つまり、そこで何をしたいということまで理解してもらえるだろうか、という不安がつきまとう。かといって、「セックスしよう」じゃあまりにもストレートすぎて雰囲気ぶちこわしだ。女性はなによりも雰囲気を大切にするっていうから、そのへんは気をつけないと。ああー、何か気のきいた言葉はないものか!

そんな感じでうだうだと思い悩んでいる僕を、都がじっと見つめていることに気がついた。その瞳はとても澄んでいて、何の汚れもないかのようで……。

「…………」

じりじりと限界にまで高ぶっていた気持ちが、一瞬にして萎えてしまった。こんなにも純粋な目で僕を見つめてくれている都を、僕はただ欲望のはけ口としてしか見ていなかったように思え、激しく自己嫌悪に陥った。やることしか考えていなかった自分自身がこの上なく汚らわしい存在のように感じられ、この身もろとも燃えるゴミに出して焼却してしまいたくなった。

……やめよう。このまま自分の欲望のままに突き進んだとしても、きっと都のを傷つける結果にしかならないだろうから。だいたい、奥手な都がこんないやらしいことをしたいと望むわけがないじゃないか。そうだ、そうに決まっている。

僕は大きく息を吐いた。それと一緒に自分に取り憑いていた邪な考えもすーっと抜けていくように感じられた。

「……そろそろ寝ようか?」

さばさばとした調子で言ったつもりだけど、うまくいっただろうか?

「う、うん……」

都はこくりと頭を垂れた。そのまま顔を上げようとしない。

「親の寝室が空いているから、都はそこを使うといいよ」

ピクリと都の肩が動いたような気がしたけど、気にせず続ける。

「セミダブルベッドだから一人で寝るにはちょっと広いかもしれないけど、いいだろ。まあ、ベッドから落ちるという心配がないから、寝相が悪い都にも安心だな」

そう言って僕は笑う。都が寝相が悪いかなんてことは本当は知らない。まあ、ギャグのつもりだ。都も「もう誠司君ったらー」なんて言って笑ってくれればいいと思った。

だけど――

「…………」

都は無言だった。うなだれたまま動こうとしない。

もしかして寝相のことが図星だったから怒っているのかな……なんて思っていると、

「……いいたいことそれだけ?」

都はぼそりと言うと、すくっと頭を上げた。その表情は真顔だった。普段は下がり気味の眉がくっと上にあがっている。まっすぐな瞳でしっかりと僕を見据えている。どことなく強い意志を感じさせた。

どこか頼りなげで、どちらかといと気弱な都がこのような表情をすることはとても珍しいことだ。僕は思わずうろたえてしまった。

「――じゃあ、今度はわたしが言う番ね」

都は静かな、だけどしっかりとした声で言った。

「誠司くん」

「は、はい……」

「わたし、勝負下着つけてきた」

「……はい?」

「持っている中で一番いい下着をつけてきたの」

「…………」

この緊張感の中、いきなり下着の話をするものだから、僕は唖然としてしまった。

そんな僕に構わず都は続ける。

「その下着はね、半年くらい前にお母さんが買ってくれた物なの。『あなたも一枚くらいはいいやつ持っておきなさい。いざという時に役に立つから』なんていうものだから。……本当は嫌だったんだ。だって、いざという時に備えるだなんて、何だかいやらしいじゃない。そういう気持ちがあったから、すごくきれいで肌触りもいいことはわかっていてもこれまでつけたことはなかった」

「…………」

「今日その下着をつけてきたの。ついにいざという時がきたんだと思ったから……」

「…………」

「だから……その……わたしは覚悟できているから……だから、心配しないで……いや、この言い方はおかしいか……えーと、その……それでも、その……つまりわたしたちは恋人同士なわけで……もし誠司君が嫌でなければ……いや、いやだったらいいんだけど……つ、つまり、何が言いたいかというと……言うと……」

都の言葉がどんどんしどろもどろになっていく。それに呼応するかのように、真剣そのものだった表情も真っ赤になって崩れていく。しまいには真っ直ぐこちらを見ていられなくなって首からしおれてしまった。

「…………」

その様子をしばし呆然と見ていた僕だったけれど、このままにはしておけないと思った。

僕は都を抱きしめた。都の身体が一瞬ビクリと跳ね、硬直する。だけど、それは一瞬のことで、やがて力を抜いて僕に身を任せてきてくれた。

言わなきゃと思った。

さっき、僕は言うべきことを言えなかった。都は僕とそういう関係になることを望んでいないに違いないなんて勝手に決めつけて言い訳にし、そのことから逃げていた。本当は自分に意気地がないだけだったくせに。

そんな僕に、都がきっかけを与えてくれた。自分もそのつもりでいるのだということをちゃんと教えてくれた。奥手の都にしてみれば、それはとても恥ずかしくて勇気のいる行為だったに違いない。

そんな都の健気な気持ちに是が非でも応えなければならないと思った。僕と都の関係を一歩前に進めるための勇気を伴う言葉は、僕のほうから言わなきゃいけないと思った。――じゃないと、男じゃない。

「都……」

僕は都の名前を呼んだ。

都は顔を上げて僕を見る。その瞳の光はさっきまでのように強くはなく、不安に揺れていた。

その目を、今度は僕が真っ直ぐに見据えて言った。

「お前を、抱きたい」

「…………」

沈黙。テレビではそろそろ二股を掛けていたかどうか結論が出る頃だったけど、音声はまったく耳に入ってこなかった。僕たち二人だけしかこの世界にいないかのような感覚がした。

……どれだけの間そうしていただろうか?

きっかけは何てことない、緊張で息も止めていた都が我慢できずに大きく息を吐き出す音だった。それで僕ははっと我に返った。そして、とたんに狼狽した。

「あ……あのだな、抱きたいっていっても、別に今やっているみたいに抱きしめたいってことではなくてだな……その、つまり、なんだ、こうもっとシリアスな意味での抱きたいなわけであって……だから、その、ストレートに言うと、つまり、セッ……したいと……まあ、そういうわけで……わけで……」

言葉を連ねれば連ねるほどしどろもどろになっていくのを感じた。それに呼応するかのように顔に血が昇っていくのを感じた。鏡で見たら真っ赤になっていることだろう。あー、くそっ、なにやってんだろうな、もうー!

その時、都がくすくすと笑った。僕の腕の中に抱かれているせいもあってか、それはさながら巣の中の小鳥がピーチク鳴いているようにも見えた。

まあ普通は笑うよな、こんなわけのわからないことを聞かされたらさ。だけど、こっちは真剣そのものだったんだ。それに対してその反応はないだろ――なんて文句のひとつも言いたくなった。

だけど、僕は文句は言えなかった。なぜなら、都が僕の唇に人差し指を押し当てたから。

「誠司君の発言はそれまで」

「え……?」

「誠司君、わたし、誠司君と順番できたから、今度はわたしが発言する番だよ」

そう言うと、都は自らも腕を回して僕に抱きついてきた。甘えるように顔を僕の胸にすり寄せる。さらさらと揺れる髪からはコンビニでも売っていそうなシャンプーの素朴で優しい香りがした。それが都らしくて愛おしく感じられた。

やがて、都は顔を上げると、少し照れたような、だけど満面の笑みを浮かべて言った。

「わたしも、誠司君に抱かれたい」


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