始まりの予感
第五話 銀糸
その夜のこと。
俺と狭霧は、この神社で夜を明かしていた。
狭霧 「頼人様、どうぞ」
酒を注いでくれる狭霧。
頼人 「ああ、ありがとう狭霧」
俺は狭霧が注いでくれた酒に口を付ける。
狭霧 「月が、とても綺麗ですね・・・」
部屋から見える月に視線を向け、狭霧がそう呟く。
頼人 「・・・そうだな」
俺も狭霧に釣られるように、月を眺めてみた。
それは、綺麗な十五夜の月だった。
月明かりが、俺と狭霧を優しく包みこんでくれている。
月を眺めながら、俺は考えてみた。
狭霧の記憶・・・狭霧は記憶を取り戻した方が本当にいいのかと。
俺はこれまで、狭霧に記憶を取り戻して欲しいと思っていたが、よくよく考えれば、それは狭霧の過去にあった悲しい出来事まで、全て思い出してしまうということだ。
両親のこと・・・ずっと苛められてきたこと・・・そして、あの日の出来事・・・。
狭霧は、悲しみしか知らずに生きてきたようなものだ。
それにもう・・・記憶が元に戻ることはないのかもしれない・・・。頼人 「狭霧・・・もう無理に記憶を取り戻そうとしなくてもいいぞ。俺はもう、またこうして一緒に暮らせていけるだけで満足だ。・・・悲しい記憶を無理に思い出すことはない」
俺は、狭霧の目を真っ直ぐ見つめながら、そう言った。
狭霧は俺の言葉を聞き終わると、目を瞑り、暫く考え込んでいた。
そして、ゆっくりと目を開けると、俺の目を真っ直ぐ見つめながら。狭霧 「いやでございます」
そうはっきりと答えた。
頼人 「何故だ狭霧!! 例え思い出したところで、それは悲しい記憶でしかないんだぞ!! 辛い思いをするだけかもしれないんだぞ!! それにもう、俺にはお前の記憶を取り戻させてやるすべはない!!」
俺は声を荒げていた。
俺はもう狭霧の悲しむ顔を、苦しむ姿を見たくはなかった。狭霧 「それでも! 例えどんなに辛い記憶だったとしても! それは私の生きた証だからです!! 確かに、確かに私がこの世で生きてきたという証だからです!!」
俺に負けまいと声を荒げ、反論してくる狭霧。
それは、俺が始めてみる狭霧だった。狭霧 「私は不安なんです。今ここにいる私は、もしかしたら幽霊なんじゃないかって・・・もう、死んだ人間なんじゃないかって・・・」
頼人 「そんなことある訳ないだろ!!」
狭霧 「・・・それが、記憶がないということなんです、頼人様。私には、この世で生きてきた証が何もないのです。私がいつ、どこで生まれたのかも、両親の名前さえも、そして、今のこの私の名前さえも、目の前にある全てのことが、私には実感のないものなんです。私は・・・生きているという実感がないのです。毎日が夢の中の出来事みたいな感じなのです」
頼人 「・・・」
俺は、狭霧の言葉にもう何も言えなくなってしまった。
俺に記憶がなくなったという経験などないのだから。狭霧 「申し訳ありませんでした。取り乱してしまいまして・・・でも、記憶を取り戻したい理由は、それだけではないのです。こんな私のことを良くして下さる頼人様と私との間に、一体何があったのか、私はそれが知りたいのです。それが、私の本心です。きっと、私は昔の私に嫉妬してるんだと思います。それに、あの子供達のためにも・・・私は記憶を取り戻したいのです」
そう言って、狭霧は俺に微笑みかけてくれた。
とても優しい、慈愛に満ちた笑顔だった。
俺はそんな狭霧を、ただそっと抱きしめてやった。
今の俺には、それだけしかしてやれることがなかった。
天よ、もし神という者がこの世にいるのなら、どうか、どうかこの狭霧の願いを叶えてやってくれ。
狭霧には、誰よりも幸せになる権利があるはずだ。
これ以上、狭霧に悲しみを与えないでやってくれ。
俺は月を見上げながら、そう強く強く願った。
それはもう、叶わぬ願いかもしれない。
それでも俺は・・・願い続けた・・・。
そして、俺と狭霧は寄り添いながら、悲しいぐらい綺麗な十五夜の月を、ただ見つめていた。・
・
・
あれから俺は、狭霧に進められるまま酒を飲んでいた。
酒を飲んで、何もかも忘れたかったのかもしれない。狭霧 「・・・あっ、頼人様、お酒が切れたみたいですね」
狭霧の言葉に徳利を傾けてみると、確かにもう酒が空になっていた。
狭霧 「それでは代わりをお持ちしますね」
そう言うと、狭霧はお膳を持って、廊下へと歩いていく。
俺は一人月を眺めていた。狭霧 「頼人様・・・」
不意に、廊下から狭霧が俺を呼ぶ声が聞こえてきた。
見ると、狭霧は廊下の中ほどで立ち止まり、不思議そうな顔をしている。
俺は立ち上がり、狭霧の側まで行ってみた。頼人 「狭霧・・・一体どうした?」
俺は、今だに立ち竦んでいる狭霧に声をかけてみた。
狭霧 「頼人様・・・何か、聞こえてきませんか?」
頼人 「聞こえて・・・?」
狭霧の言葉に、俺は耳を澄ましてみた。
・・・聞こえる、確かに聞こえてくる。しかもこの旋律は・・・。狭霧 「・・・私・・・この旋律・・・知っている気がする・・・うっ!?」
ガッシャァーーーン!!
狭霧が持っていたお膳が廊下に落ち、そのまま庭先へと転がっていく。
狭霧は頭を抱え、苦しそうにその場に蹲ってしまった。頼人 「狭霧!! 大丈夫か!?」
俺は、苦しそうに蹲っている狭霧を抱きしめた。
一体どうしたと言うんだ? それにこの旋律・・・昔狭霧が俺に奏でてくれた、あの琴の音に間違いない。
しかし、あの琴は俺があの時叩き壊したはずだし、ここには俺と狭霧しかいないはずだぞ。
俺は、視線を昔狭霧が琴を奏でていた、あの離れに向けてみた。
すると、一瞬だったが、そこで確かに何かが光ったのを見た。
俺はその場所へと駆け出していた。
離れに駆け込んだ俺が、そこで見たものは・・・朱色をした一本の糸だった。
そして、あの旋律は確かにその糸から聞こえていた。頼人 「これは・・・」
俺はそれを両手に持ってみた。朱色をした糸は、何故か銀色に淡く光っていた。
これは・・・確かあの琴の、一本だけ違っていた弦ではないのか・・・?『もし、願いを叶えてくれる品が、本当にこの神社の何処かにあるのだとしたら、琴の音と一緒に、何処かで私の願いを聞いてくれているかも知れません』
不意に俺の脳裏に、昔狭霧が語った言葉が浮んできた。
まさかと俺が思った瞬間、その糸は一瞬強く光ったかと思うと、何故か俺の手の中から消えてしまっていた。
まるで、何事もなかったかのように、月明かりだけが俺を包み込んでいた。頼人 「俺は・・・夢でも見ていたのか・・・?」
その時不意に、後ろに人の気配を感じた。
狭霧 (・・・よ・り・ひ・と・さ・ま・・・?)
狭霧の声だった。
しかし、その声は何故か震えている。
俺は振り向き。頼人 「狭霧、もう体は大丈夫なのか? 心配したぞ」
そう声をかけた。
しかし、狭霧は俺の声には答えず、不思議そうに辺りを見渡していた。
そして、最後に俺の目を真っ直ぐ見つめてきた。狭霧 「頼人様・・・ですよね・・・私・・・」
俺を見つめる狭霧の瞳・・・俺は・・・この瞳を知っている・・・まさか!?
頼人 「さ、狭霧・・・もしかして・・・記憶が・・・」
俺の脚が、自然と狭霧の元へと踏み出していく。
狭霧 「私・・・生きてる・・・どうして・・・ねえ、頼人様、もうお会いすることなどないと思っていたのに・・・どうして私・・・ここにいるんですか・・・ねえ、どうして・・・教えてください、頼人様・・・」
狭霧の目からは、行くすじもの涙が零れ落ち、床に小さな水溜りを作っていく。
頼人 「狭霧いいぃーっ!!!!」
俺は狭霧に駆け寄り、強く強く狭霧を抱きしめた。
もう二度と感じることなどないと思っていた狭霧の温もり。
俺は今、確かにこの手に感じている。
あの嵐の夜、必死で伸ばした指先が・・・今、ようやく狭霧に届いてくれた・・・。
俺は、神に感謝した。狭霧 「頼人様っ、頼人様っ、うわぁああああーーーっ」
二人の泣き声が、いつまでも、いつまでも社殿に響いていた。
それは、月がとても綺麗に輝いていた夜のこと。
月明かりと、琴の音が、優しく二人を包み込んでくれていた夜のこと。
冬の終わりを告げるような・・・そんな、出来事だった・・・。
つづく