始まりの予感
第四話 あの丘へ・・・
目が覚めると、そこは知らない世界だった。
床も、天井も、開け放たれた障子から見える外の景色も、何もかも初めて見るものだった。
そして・・・私自身さえも・・・。
私は一体誰なの? どうしてここにいるの?
私の質問に答えてくれる人は誰もいませんでした。
それは、当たり前のことでした。
だって・・・誰も私のことを知らないのだから・・・。
そんな私に神主様は、多分それがあなたの名前だよ、と言って、私の名前を教えてくれた。
どうやら私の名前は『狭霧』というらしい。
何でも、私が高熱で魘されていたとき、私がそう呟いていたという。
『狭霧』・・・そう呟いてみたけど、それが私の名前だという実感はなかった。・・・何も覚えていない私。
・・・私のことを覚えていてくれる人が、誰もいない世界。
私・・・生きてるのかな・・・。・
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それから私は、毎日社殿の縁側に座って、ただ空を見上げていた。
神主様は、時が経てば何か思い出すかもしれないとおっしゃってくれた。
今の私には、その言葉を信じて待つしかなかった。
それは何時のことだろう・・・今日だろうか・・・明日だろうか・・・それとも・・・。
私は今日も、空を見上げる。
何時しか、季節は二周りほど巡っていた。・
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大雨が降った、次の日の昼下がり、珍しくこの里の者以外の人が、この神社に訪れてきた。
境内に入ってきたその人は、何故か私の方へ真っ直ぐに歩いてくる。
とても優しそうな目をしていた。
『狭霧』、と、私の名前を読んでくれた。
もしかしたらこの人は、昔の私のことを知っているのかな?
一瞬そう思ったけれど、私のことを里の者に聞いて知っているだけかもしれない。
ただ珍しいというだけで、私に合いに来る人が今まで何人もいたから・・・。
私が、何処かでお会いしたことがありますかと尋ねると、その人はとても悲しそうな、辛そうな目を私に向けてきました。
もしかしたら、この人は本当に、私のことを知っているのかもしれない。
私は、胸が高鳴ってくるのを感じた。
そして、私の予感はすぐに現実のことになった。
一輔様とおっしゃる方は、何でも私が子供のころから私の面倒を見てくれた方だそうだ。
そして、もう一方、頼人様とおっしゃる方は、ただ、私の知り合いだとしかおっしゃらなかった。
でも・・・境内でお会いした時の、今も私のことを見つめてくるその瞳は、とてもただの知り合いだとは、私には思えなかった。
そして、私は頼人様と一輔様と共に、二年余りお世話になった、この神社を後にした。
神主様は、それがお前にとって一番いいことだといって、笑顔で見送ってくれた。
こんな私を、二年もの間とてもよくしてくれた神主様に、私は深く感謝した。・・・それは、夏の始まりの季節でのこと
・・・見上げた空が、とても、とても綺麗に見えた日のこと。
私の止まっていた時間が、ようやく動き始めたことが、とても嬉しかった。・
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頼人様も一輔様も、私のことをとてもよくしてくれた。
一輔様は、私の昔のことをよく話してくださったし、頼人様は、暇を見つけては私に合いに来てくださった。
私は、ただ屋敷にいるだけでは申し訳なかったので、何かお手伝い出来ることはありませんかと頼人様に尋ねたら、それでは私の身の回りの世話を頼むと、おっしゃってくれた。
こんな私でも、誰かの役に立つことが出来ることが、とても嬉しかった。
ただ、私がお食事を運ぶたびに、今日の椀の味は大丈夫かと聞いてくるのは何故なんだろうと、いつも不思議でした。
でも、私はそれが楽しかった。
余りに毎日毎日言うものだから、私はある日、わざと椀の味をおかしくして持っていった。
すると頼人様は、それでこそ狭霧だ、と言って、とても楽しそうに笑っていた。
昔の私は一体どんな子だったのだろうと、この時真剣に悩んでしまいました。
ここのお屋敷に来てからは、とても楽しい毎日が続いた。
ただ、二人とも、私が両親のことや、どこに住んでいたのか、私はどうしてあの神社にいたのかと聞こうとすると、その度とても悲しい顔をされ、何もおっしゃってはくれなかった。
私は思い出したかった。
私を生んでくれた両親のことを、私が生まれ育った里のことを、そして、こんな私を気にかけて下さる頼人様のことを・・・。
例えそれが・・・悲しい出来事でしかなかったとしても・・・。
私はそう思いながら、いつものように空を見上げてみた。
何時のまにか空は高くなり、秋の訪れを予感させていた。・
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実りの秋、辺りが一面黄金色に染まる季節。
豊作を予感させるその輝きに、皆喜んでいた。
冬、全てを白く染めてしまう雪の季節。
それでも子供達は元気に外を走り回っていた。
新しい年の始まりを、皆が喜んでいる。
移り変わっていく季節、それでも、私は何も思い出せないでいた。・
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雪も溶け、少しづつ暖かくなり始めた、冬の終わりが近づいた日のこと。
俺は、だんだん不安になってくるのを感じてきていた。
今だ何も思い出せないでいる狭霧。
俺は、いや一輔も思っていただろう。
俺達の側にいれば、いつか記憶が戻るのではないかと・・・。
特に一輔は、狭霧の親みたいなものだからな。
だから俺は気長に待つことにした。
今こうして狭霧が、生きて俺の側にいてくれる。
俺は素直にそれだけで嬉しかったのだから、何時か俺のことを思い出してくれると信じていたのだから。
しかし、夏が過ぎ、秋が過ぎ、もう、すぐそこまで春が来ているというのに、狭霧は今だ何も思い出せないでいる。
もしかしたら、もう俺の知っている狭霧には会うことが出来ないかもしれない。
俺は、そう思い始めていた。・
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月がとても綺麗に見えた夜のこと。
俺は、屋敷で一輔と酒を酌み交わしていた。
頼人 「・・・一輔殿、俺はあの里に狭霧を連れて行くことにする」
それは、俺も一輔も今までずっと避けてきたことだった。
あの里は、確かに狭霧の記憶を取り戻すにはいい場所かもしれない。
しかし、あの里では狭霧は死んだことになっている。
そんな狭霧が姿を見せれば、きっと狭霧は奇異の目で見られるはずだ。
俺も一輔も、狭霧をそんな目に合わせたくなかったから、いままでずっと避けてきた。
そんなことをしなくても、狭霧の記憶は元に戻ると思っていたのだからな。
しかし、狭霧の記憶は今もって回復する様子を見せていない。
だから俺は行こうと決めた。
もうそうするしか、俺には方法はないのだから。一輔 「・・・そうでございますか・・・どうぞ、頼人殿の御好きなように・・・」
頼人 「すまん」
俺と一輔は、それから夜遅くまで酒を酌み交わした。
お互いに、これが最後の賭けだということを知っていた。
このことを狭霧に話すと、狭霧は喜び、いつ行くのですかと、俺と顔を合わす度に聞いて来るようになった。
そんな嬉しそうな狭霧に、俺は辛い思いをさせるだけかもしれない。
俺は、それが不安だった。・
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よく晴れた日のこと。
頼人 「狭霧、あれがお前の生まれ育った里だ」
俺は馬を止め、狭霧に見えるよう馬を横に向けた。
山の峠から、あの山里が見下ろせていた。
あの頃と同じ踏鞴の煙が、行く筋も天に昇っている。狭霧 「・・・そうですか」
狭霧は、じっと山里を見つめ、何かを思い出そうとしているみたいだった。
頼人 「よし、いくぞ」
俺は馬を再び歩かせ、峠を下りはじめた。
俺と狭霧の全ての記憶が、あの山里にはある・・・。・
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里に着くと、まっすぐ鷺宮神社に向かって馬を歩かせる。
俺の予想通り、狭霧を見た里の者は、皆まず驚く、そして、化け物でも見るような視線を狭霧に向け、そして逃げ出していく。
狭霧が、自分を騙した里の者に復讐する為、あの世から戻ってきたとでも思っているのだろう。
最初嬉しそうにしていた狭霧も、今では俯き、じっと村人の冷たい態度に耐えているだけだった。
くそっ、あの時狭霧に助けて貰った恩を忘れたのかっ!
俺は手綱を強く握り締めた。
そして馬を走らせ、あの神社へと急いだ。
狭霧をこれ以上、奇異の視線に晒させたくはなかった。・
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神社に着くと、そこには懐かしい石段が待っていた。
長い石段、懐かしかったが、それ以上に苦労させられた記憶の方が強い。
俺と狭霧は、ゆっくりと石段を上がって行く。
石段を上がりきり、朱色の鳥居をくぐった境内の入り口で俺は立ち止まった。
そして、そこにある桜の木を見上げた。
桜の木には、少しずつ、つぼみが見え始めていた。狭霧 「頼人様? どうかなさいましたか?」
狭霧が不思議そうな顔を俺に向けてくる。
頼人 「・・・狭霧、ちょっとここに立ってみてくれ」
狭霧 「えっ・・・はい、ここでよろしいですか?」
頼人 「ああ、それでいい」
狭霧 「頼人様・・・これが一体・・・」
更に不思議そうな顔をする狭霧。
頼人 「・・・ここで・・・こうやって、俺はお前に初めて会ったんだ。桜が舞い散る季節、そこでお前は竹箒を持って、掃除をしていた」
俺はそう言って、狭霧に微笑みかけた。
狭霧 「・・・ここで頼人様と・・・」
狭霧はそう呟きながら、桜の木を見上げる。
それから視線を俺に向けると、狭霧も俺に微笑みかけてくれた。
一瞬、時が戻ったような、そんな気がした。・
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境内に入り、社殿の中を一つ一つ見て回る。
今ここには神主は置いてはいない。
何故か、俺は置く気にはなれないでいた。
しかし、社殿が荒れては不味いので、掃除だけは定期的にやらせていた。
社殿の廊下を歩く。
朝、狭霧が元気よく掃除をやり過ぎる為、よくその音で叩き起こされたものだ。
俺が世話になっていた部屋。
ここで狭霧の失敗作をよく食べさせられたものだ。
社殿の庭先。
狭霧がよく里の子供達と遊んでいた。俺まで巻き込んで。
俺は、一つ一つ狭霧に聞かせてやった。狭霧 「それでは私はまるで、失敗ばかりしていたみたいじゃないですか」
俺が狭霧の失敗談ばかり話すものだから、最後はそう言って不貞腐れてしまった。
頼人 「ははは、すまん。しかし事実なのだから仕方ないだろう」
狭霧 「それでは、もっといい思い出をお話しください」
頼人 「いい思い出か・・・それでは・・・」
俺は、廊下の先にある離れへと向かった。
頼人 「ここで、お前は俺に琴を奏でてくれたんだ。上手だとはいえなかったが、俺にとっては忘れられない旋律を奏でていたんだ」
狭霧 「私が・・・琴をですか?」
狭霧が驚いた顔をする。
確かに、琴などはよっぽど裕福な者でないと持ってはいない、高価なものだ。
今の狭霧が驚くのも無理はない。頼人 「ああそうだ・・・俺には忘れたくても忘れられない出来事だった」
狭霧 「そう・・・ですか」
狭霧はそう言って離れに入ると、静かに床に座り、そっと床を撫でていた。
必死で何かを思い出そうとしているのだろう。
ここは、俺にとっても、狭霧にとっても、一番思い出深い場所なのだから。
俺はただ、そんな狭霧の様子を黙って見つめていた。・
・
・
ザザザァーーーッ。
枯れ草が風に揺れている。
この季節のこの場所は、まだとても寂しかった。
狭霧と見た、あの菜の花が咲き誇るには、まだ少し季節が早すぎる。
あの時狭霧と登ったこの丘・・・狭霧が、一番好きだと言っていたこの場所に、今、俺と狭霧は立っている。
狭霧は、風になびく髪を手で押さえながら、夕焼けに紅く染まる里を、じっと見つめていた。
結局狭霧の記憶は、何も戻っていない。
だから最後に、狭霧が一番好きだと言っていたこの場所へと、連れてきてやった。
今、狭霧はどんな気持ちで里を見つめているのだろうか。頼人 「どうだ狭霧、何か、少しでも感じるものはあるか?」
狭霧の隣に立ち、俺も夕焼けに紅く染まる里を眺めてみた。
あのころと違う物と言えば、堤防がしっかりとしたものへと変わったことぐらいだ。
ここの景色はあのころと変わってはいない。狭霧 「いえ、何も・・・」
狭霧は寂しそうにそう呟いた。
頼人 「そうか・・・」
そして、俺と狭霧は暫くの間、ただじっと里を見つめていた。
・
・
・
『あっ!?』
丘を下り、神社の境内へと戻ってきたとき、懐かしい声が聞こえてきた。
『やっぱりお姉ちゃんだぁーーーっ! わぁーーーい!』
それは、あの頃ここへよく遊びに来ていた子供達の声だった。
子供達は、急いで駆け寄って来ると、狭霧の腕や服を引っ張り。子供 「ねえ、いつ帰ってきたの?」
子供 「いままでどこにいってたの? もうどこにも行かない?」
子供 「わたしたち、毎日ここに来て待ってたんだからね」
子供 「またここに住むの? また一緒に遊べるの? また鞠で遊んでくれる?」
狭霧を質問攻めにしていた。
狭霧がこの里でどんな目にあったのか知らない子供達は、素直に狭霧と再会できたことが嬉しいのだろう。
それは、この里に着いてから初めて見た、暖かい笑顔だった。
しかし、今の狭霧にとってそれは・・・。子供 「ねえ・・・お姉ちゃん・・・何で泣いてるの?」
子供達の嬉しそうな顔に、何も答えて上げられない今の狭霧にとっては・・・。
狭霧 「ごめんなさい・・・ごめんなさい。私・・・私・・・うっ」
・・・辛いだけかもしれない。
狭霧はその場に蹲り、顔を手で覆い泣きだしてしまった。
今まで我慢してきた涙が、自分を覚えていてくれた子供達の笑顔を前に、我慢できなくなったのだろう。
子供達にとって、狭霧はとても大切な友達だ。
しかし、今の狭霧にとっては・・・初めてみる子供達だ。子供 「おねえちゃん、泣かないで、じゃないとわたし、わたし・・・ひっく」
子供 「うううっ・・・」
子供達 「うわぁーーーん」
狭霧りつられるように泣き始める子供達。
狭霧はそんな子供達を抱きしめ、泣いている。
その声が、静かな境内に何時までも悲しく響いていた。・・・それは、里が紅く染まる夕暮れ時のこと。
・・・その景色が、とても悲しく見えた日のこと。
この子供達の笑顔を思い出せないでいる自分が、悲しかった。
つづく